片手プレイがすき……
どうしよう、本当にすき。一生やめられない。
そんなポエム。
片手プレイとピアノは似ている
片手プレイがすきな理由は、多分ピアノと似ているからだと思います。
わたしは四半世紀ピアノをやっていて音大も卒業しているのですが(めっちゃギリギリ、学校イチ下手だった)、
片手プレイは特にピアノと似通っている部分がたくさんあるなと感じています。
(挙げればきりがないのですが、とりあえず常日頃感じていることを書きます)
まず、指の独立性がかなり要求されること。
当たり前ですが、片手プレイは両手プレイよりは指の独立性やハンドスピードが求められます。
これは四半世紀ずっと基礎練であるハノンを続けてきたので、片手プレイをやったときに「自分の過去の経験が生きるゲームだ」と感じました。
わたしは指が恐らく平均よりも動く。
これは強みにしていきたいなと思っています。
指の独立性については別途考察していこうと思います。
次に、思考する時間が長いこと。
ピアノは一つの楽曲と向き合う時間がとても長いです。
まずアナリーゼと呼ばれる楽曲分析から始まります。
作曲家のパーソナリティや曲が作られた時代背景から、その曲を表現するにあたって何が一番重要なのかを考えます。
そして、譜読みをする。
譜読みの手順としては、最初に楽譜をさらいます(譜面に対応する手の形を模索する)。
そのあと最適な運指や表現に必要なペダリングなどを研究し、自分が苦手な箇所を洗い出します。
あとは地道に練習。
ローテンポから始めて何度も同じフレーズを弾いて身体に覚えさせる。
できてきたら速度を上げる。
するとできない部分が明確になるのでそれを潰す。
技術的にも表現的にもこれの繰り返しです。
テンポが変えられないところ以外はだいたい片手プレイと同じです。
片手プレイも運指研究の模索などが肝になるので。
最後に、めちゃくちゃ脳筋精神論だということ。
わたしは一度、哲学科に入学したあと中退して音大に入り直しました。
哲学科はとても楽しかったのですが、そこで出会った友だちはみんな「自分が自分だと証明できる武器」を持っていました(写真や演劇など)。
わたしにとってそれに一番近いのはピアノでした。
生まれてからずっとピアノで期待されていて練習を強いられてノイローゼになっていたのですが、
哲学科の友だちの影響で「ピアノを使って自分と向き合い続ける人生にしよう」と決心しての再入学でした。
音大時代の5年間(目標達成のために一留している)は本当に本当につらかったです。
でも、それが楽しかった。
努力し続けてとにかくもがいて、生きているという実感が得られたし、結果を出して自己肯定感も高められました。
楽曲や譜面の研究、運指やペダリングの考察、表現の解釈、何度も何度も繰り返し地道に練習すること。
自分がいかに下手かを受け入れて、課題を洗い出して細分化された目標に落とし込むこと。
地道に目標をひとつずつ達成していくこと。
この過程はとてつもなくしんどいけれど、自分が上達したと実感できた瞬間はなんともいえない達成感がありました。
今は片手プレイを通して自分と向き合い続ける人生になっています。
片手プレイとピアノが違うところ
もちろん、片手プレイとピアノには差異もたくさんあります。
ピアノは正規譜面を覚えて繰り返す
反射神経で譜面を押すよりも、座学と反復力が問われます。
譜面にランダムなどかけられないので(当たり前)、何度も同じフレーズを弾きこんで覚える。
これはjubeatとかのほうが近いのかな。
ピアノは餡蜜ができなかった
ピアノはスコアを狙うゲームなので(ちょっと違うけどまあそんな感じ)。
ただ手の大きさ的に逆餡蜜は多用していました。
音ゲー的にはクリアの場合には餡蜜・逆餡蜜は有効ですが、スコアとなるとまた話は別です。
そこがピアノとは違います。
最後に
書き散らかしてしまいましたが、わたしはビートマニアとピアノをおなじように捉えていて、
人生の一部だと思っています。
そのため、ビートマニアの上達のためにはピアノとの差異を常に考えています。
ピアノが応用できるところは自分の強みで、違うところは弱みだと思っているので。
だから何かというわけでもないのですが、そう思っていることを記したくて残しておきました。
完全にポエムでした。終わり。